詩をおいておくところ

1984年生まれ。詩を書いては残しします。

よすが

生きる上で社会に反発やしこりを感じながらも、僕を含めきっと沢山の人が生きているんだろうと思う。
その中で、僕を含め色んな人が、生活に言ってしまえば関係のない、自分の詩情、というかもっと言うと魂のあるところを吐き出そうとして、例えばギターを弾いたり、DJをしたり、詩を書いたり、一際丁寧にお料理をしたり、踊ったり、絵を描いたり、人にはわからないくらいの緻密な会話をしたり、はたまた刺青を入れたり、自傷行為をしたりしているんだと思う。
それは僕はひとつ芸術だ、と思う。
親近感というか、連帯感を感じる。
でも、わかった、君のことがすっかりわかりました等という偽善は安易に吐かない。
僕個人にわかることなんかしれてる。
僕はこういった事を必要芸術だと思う。
うつくしいと思うし醜いと思う。
存在してはいけない、と思った事は一度もない。
僕たちはコミュニケーションを欲するがあまりにディスコミュニケーションする。
突っ撥ねる。暗号化する。わからなくする。
そこを読み取る気概は僕はまだギリギリ焼きがまわってないし、また読み取る事をありがたいとさえ思う。
今日も明日も明後日もはみでた社会の周縁の人達はわからない言葉で海に手紙を流す。僕もそうだ。
淋しさを怒りに変えてはいけないと思う。
答えや形が出るまでは苦しくても待つことだと思う。
うつくしいなにかがどんな人にもあると信じきることは大切だなあ。
こんなブログなんかに書き連ねてるんでなくて信じきらねば。
ただ、僕は君のこと、わかるよ、君の痛みすっかりわかったよ、というような偽善は吐かない。
わかるわけねえ。
君のことが見えていますよ、くらいの感じだ。
自分の度量の狭さにへこみますよ。
でもお互いの生きた苦しさの座標のすり合わせをして言語を放つことはしあわせですよ。
赤裸々だなあ。かっこええなあ。