詩をおいておくところ

1984年生まれ。詩を書いては残しします。

鬱の座標、躁の座標、パニック障害の座標

去年の秋頃まで随分気持ちのアップダウンが激しく、電車に乗ると過呼吸になったり、高いところが怖くなったり、ひどいときには人になにかを問いかけられても、それに対してなにか思っていても言葉にできない、という感覚が続いていた。特になにもない、ただ目を開けて生活しているときに急に曼荼羅のような模様が視界いっぱいに広がったりした。あれは怖かったなあ。
今、そういう症状は全然出なくなった。
どうして急によくなったのかな、と不思議に思っていた。あんなに食べ物を気にしたり、タバコをやめたり、お酒を控えたり、運動しまくったりしても治らなかったのにどうしてだろう、と。
それは多分、別に大歓迎というわけでもないけど、症状自体を気にしなくなったからだ、と自分で思っている。
問題や気に入らなさはいつも症状自体より症状からくる、気分のムラや思考停止で、それに飲まれてしまうといずれ考え自体が変わってしまう、ということだった。
僕は気分を超えて変わらないものを心に打ち立てたいと思ったので、毎日自分の中で起こっている事を書いた。
時にはただの日記、時には誇大妄想気味の散らかった文章。
どんな支離滅裂な文章でも、今でも読み返すとなにを言いたいかはわかる。
そして今読めば自分ではそれが面白い、楽しいとさえ思う。
でもやっぱり支離滅裂なものは人には伝わらないだろうな、とも思う。
心のチューニングっていうのはいわば住む場所であるとか立つ場所自体が、環境が変わってしまうという事だと思う。
僕はこれを心の座標、と読んで今は楽しんでいる。
座標自体が変わってしまっても自分がそれに飲まれずになにが起きているか考えて、酔わずにいればそれは面白いものになるんじゃないかなあ、とも思う。
僕よりずっと症状が重い人はきっとすごく苦しいだろうけど。
座標が沢山ある、或いは色んな座標に立った事があるというのは心の中の広さを知れるきっかけになるんではないかな、とも思う。
何事にも酔わないのが一番今はたのしい。